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《老いを実感した日》66歳オバ記者、ちょっとした段差ですっ転ぶ 手を差し伸べてくれた若者にすがりつけず…そのときどうした?

オバ記者
東京駅丸の内のビルの前で老いを痛烈に感じる体験をしたオバ記者
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ライター歴45年を迎えたオバ記者こと野原広子(66歳)。ここ数年、愛猫や身内の死を相次いで経験。昨年は自身の大病で手術、入院をした。最近は年を重ねたことを実感することも増えたという。オバ記者が自らの”老い”について綴る。

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ちょっとした段差で派手にすっ転んだ

「あ~あ、年はとりたくないねぇ~」は、66歳の私にとって挨拶がわりに聞く言葉だ。わざわざ「聞く言葉」と言ったのは私はまだ言ったことがないからよ。口を真一文字に結んで「ん~。だね~」って同調するし、心の中で「そうだ、そうだ、まったくそうだ」と大きくうなずくけれど、口には出さない。ひとり暮らしの部屋では日に何度も思っているんだけどね。

オバ記者
「年はとりたくない」と口にしたくない(写真は通っているタイマッサージ)
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たとえば朝、体の下になっていた腕が痛くて目が覚めたときとか。目が疲れ過ぎて痛くて開いていられなくなった夜とか。こんなこと前はなかったもの。それだけじゃない。この間はちょっとした段差で足を踏み違えて派手にすっ転んだの。場所は東京駅構内のビルの前で、スーツ姿の若者が「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてくれたけれど、その手にすがりつけないのよ。恥ずかしいとかじゃなくて、転んだショックで体がフリーズ。立ち上がる動作ができない。

「ありがとう。大丈夫です」と繰り返して、心配そうな顔でのぞき込む若者をただ見上げるしかできない不甲斐なさといったらないって。あ~あ、あと10年、いや20年若かったら転んだ次の瞬間、スッと立ち上がっていたのになと思うと不甲斐ないったらない。

“私は私だけど以前の私にあらず”という感覚

でも年をとるのはマイナスばかりじゃない、とも思ったんだよね。若者が去ってもまだ立ち上がれず、通り過ぎる人から怪訝な顔で見られてもなお、ジベタリアンになっていたのは無意識で体の点検をしていたからよ。足首、よし。腰、よし。痛いのは膝だけでそれも少しずつ軽くなってきた。さて、ゆっくり起きあがろうかって、転びながら自己点検なんて芸当、10年前の私には出来なかったもの。若者に対する見栄で跳ね上がってそれで捻挫をこじらせたっけ。

オバ記者
隅田川をウォーキング中のオバ記者
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そう言えば先日、久しぶりに家から徒歩15分の隅田川までウォーキングに出かけたの。この近くに越してきた7年前はここをウォーキングの場と決めて、両国橋から蔵前橋まで往復1時間以上かけて歩いたりしていたのよ。でもいつの間にか、徒歩圏内に隅田川があることもすっかり忘れ、歩くといえばアルバイト先の国会案内だけになっていたんだよね。

オバ記者
気づいたら歩く時間はアルバイト中だけ
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それが先週の日曜日の夕方、「行ってみようかな」と思いたって歩き出したのよ。で、隅田川の川べりで何気なく川面を見ていたら、なんていうか、とても不思議な感覚が湧いてきたんだわ。私は私だけど以前の私にあらずっていうか、ひと皮むけ切ったというか。それをハッキリと意識したのはこの時だったけれど似たようなことは少し前からあったんだよね。

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